ブルース・スプリングスティーン
  36ストーリーズ
05.24.2001 

城山隆 編
DHC 05.24.2001 初版発行 本体 1400円+税
ISBN4-88724-232-8

「強靱な虚無感」より抜粋

 熊本時代、滅法、レコード蒐集が趣味な奴がいて、アメリカに「ロック版」ボブ・ディランみたいなのが出たぞ! って言われて、そいつの家で聴いた《明日なき暴走》が最初かな。恐らく、19歳かそこいらだったと思う。針を下ろした瞬間、ハーモニカとピアノが鳴りひびいて〈涙のサンダーロード〉が始まる。この曲が終わる頃には、理屈抜きでファンになってた。アルバムの両面を通しで聴いて、スゲエ男が出てきやがった! って正直ブッ飛んだ。

 続けざまに2回目を聴くところで初めて対訳を目にしたんだけど、歌詞から受ける印象で言うなら、ディランの場合はギラギラって感じで、スプリングスティーンの場合はキラキラって感じだった。あの頃(76年当時)、名画座で観てた一連のアメリカン・ニューシネマと重なる質感がスプリングスティーンの歌世界にはあった。ツヤ消しされた極彩色っていうか。キラキラした何かを求めてるんだけど、それは遠くにあって手にすることはなかなか叶いそうにない。ニューシネマがそうなように、スプリングスティーンの歌も単純なハッピーエンドは用意されてないよね。たとえば〈明日なき暴走〉の主人公も、ある種の虚無感のなかで突っ走ってる。「明日なき」っていう邦題も、ニューシネマ的で結構しびれた。



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 スプリングスティーンの歌詞って、ムチャクチャ映像的じゃない? 街全体の詳細が、映画の舞台として彼の頭のなかに既にあるんだと思う。そして聴く人間が映像化しやすいように、車やラジオやドレスといった小道具の使い方も絶妙だし。なかでも、新鮮だったのが登場人物の多さかな。普通だと登場人物は多くてせいぜい3人くらいなんだけど、スプリングスティーンの手にかかると、友人知人ばかりか、名も知らない通りすがりの人間たちまでもが1曲の中で切りとられてリアリティを強めてる。そうした彼の歌詞に接して以来、ある対象物を見る際に、光の当たっている部分とそうじゃない部分の両方を自然に見るようになった。

 とは言っても、当時、《明日なき暴走》を聴いた影響がそのまま自分の曲や歌詞に具体的に反映されるようなことはなかったかな。地元でバンドを組んでいて、ディランの《血の轍》《激しい雨》《欲望》とかに触発されたオリジナル曲を書いて演ってたんだけど、あの頃の俺にとってスプリングスティーンは乾いてる、彼みたいな歌や演奏を体現するには日本はちょっと湿気が多すぎるな、って感じてたから。

 5、6年たった82年半ばに、俺はプロ・デビューするため熊本から上京したんだけど、数ヶ月して、アルバム《ネブラスカ》が出たんだ。音的には、そう来るかって、ちょっと驚かされたけど、歌詞的には、やっぱりこう来たかって、ちょっとニヤけた。前のアルバム《ザ・リヴァー》のタイトル曲や〈雨のハイウェイ〉あたりに、《ネブラスカ》的な歌詞の雰囲気が濃厚にあったからね。語り部というか。同じように語り部的に詩作しても、ディランの歌詞は「詩」で、スプリングスティーンのそれは「短篇」って気がした。

 それまでのスプリングスティーンの歌は等身大の本人にかなり近いものだったと思うけど、《ネブラスカ》に収められた曲の多くが等身大の誰か、っていう感がした。たとえば、〈ハイウェイ・パトロールマン〉は、「マイ・ネーム・イズ〜」で始まるじゃない。「私の名前は〜」で始まった瞬間、歌い手本人じゃない「誰か」の物語なんだってことが知れる。以前のスプリングスティーンに、「マイ・ネーム・イズ〜」で始まる曲はなかったからね。スプリングスティーンが、いかに自分からかけ離れた主人公を設定して物語を展開させたとしても、そこには彼の創作者としての誠実さが痛切なまでにある。だから、信じられるんだ、彼というアーティストや彼の創った歌は。絵空事がない、っていうか。


(c)2001 Takashi Johyama